今やAIや量子コンピュータといった夢の技術が現実となり、科学は益々進歩しています。環境や資源、倫理的課題も山積みですが、科学的世界観が常識です。そんな中、多くの方がキリスト教を迷信と思うのも無理はない気がします。
私にも長い間、神を信じることは高いハードルでした。洗礼を受け、主の教えに歩もうと思いましたが、あくまで倫理的にであって信仰の観点は曖昧にしていました。それでも、牧師から「愛は感情ではなく意志に基づくもの」と教えられて、それに倣い付き合っていた女性を本気で愛そうと願いました。また、功利主義の世にあって、群れを迷い出た一匹の羊をも見捨てないイエスの愛が心を捉えていました。
ある時私は、どうしようもない挫折を経験しました。良かれとやってきたことが、逆に愛する者に修復できない傷を与えました。どこで間違ったのか、愛する者を救えない現実に自らも悩み抜いて、決して逃がれられない自分の罪深さを知りました。その時初めて、このどうしようもない私の罪を贖うために主イエスが身代わりに十字架の上で死なれたのだということが腑に落ち、信じるようになりました。
世界は理不尽です。そして相対主義からは逃れられないでしょう。しかし、神の子である主イエスの十字架の死こそが最大の不条理であり、それ故に何物にも代え難い奇跡である、そのことが私の拠り所となりました。過ちは消せませんが、重荷をともに負って下さる主に依り頼み、歩みたいと思います。
「実に、私たちは滅び失せなかった。主の憐みが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。」
(哀歌3:22,23)
<H.Y>
