主任牧師 神戸博央

毎年、年末になるとM1グランプリという漫才の祭典がTV放映されます。一年の笑いの総決算のようなプログラムで、単純に面白いので、私もだいたい見ています。
しかし、よく観察してみると笑いには色々な種類があることが分かります。人を馬鹿にしたり嘲ったりするようなあまりテイストの良くないような笑いから、日常の中に散りばめられている可笑しさに気付かせてくれるような笑い、自分たちの愚かさを笑うことで、私たちを解放するかのような笑いまで多種多様です。一言で笑いと言っても奥が深い。一般的に笑うと健康にいいとか、積極的に笑う機会を持ちましょうというようなお勧めまで聞かれるようになってから久しく、今や笑いはブームを通り越して文化にまでなっていると言えます。
聖書は笑いについて何か語っているでしょうか。実は、笑いという言葉は、もちろんありますが、嘲笑などが多く、驚いたことに、キリストが笑われたという直接的な表現はありません。イエスは涙を流された、という表現はあるのですが、笑いについてはない。するとキリストは真面目な方で、苦しみを経験された方だから笑わなかったのでしょうか。
私もその視点で、聖書はもちろん、ちょっと調べてみました。すると、イエス様が笑わなかったかというと、どうもそうでもなさそうだと多くの人が考えていることが分かってきました。実はこのことは、「キリスト教と笑い」という、宮田光雄という方が著した真面目な本やインターネットで検索できる大学の紀要などのテーマになるなど深いもので、一部、神学的な議論にすらなっていました。歴史的には、教会が笑いに関して否定的にとらえている時代もありましたが、宗教改革以降では再評価されているというのが実情のようで、この笑いをどうとらえるかでその人の信仰理解すら分かるかのような状況でもあります。
実は、個人的にも、イエス様が笑ったと思われる箇所はいくつかあります。その中の一つは、ザアカイの回心の場面です。ルカの福音書19章に出てくるこの話は、金持ちではあったが、孤独な生活をしていたザアカイに、キリストが目を留め、友となられ、救いをもたらすという話なのですが、そこで受け入れられた彼は「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれからか脅し取った物があれば、四倍にして返します。」と思わず告白します。イエス様は「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」と語られるのですが、これらの言葉は、その直前に人々が「あの人は罪人のところに行って客となられた。」と語っていたことに対比されていたことが分かります。皆が「罪人」と揶揄していた人が、回心して、金銭の束縛から解放される。そして、イエス様が彼をアブラハムの子孫、すなわち、彼こそ選ばれた神の民だと語られたのです。この時に、イエス様は、難しい顔をしていたと思われるでしょうか?私は微笑んで話されたのではないかと感じています。
聖書は、人が救われることに関して、救いの喜びが天にあるという表現もします。喜びですから、当然そこには、天使の笑顔も想像できます。信仰生活に笑顔はつきものだと思うのです。
そういえば、私たちの教会の人たちもよく笑います。人生の大きな試練を経験する時にも、神様の永遠の守りがあることを知っている人たちにはユーモアがあり、どこか明るいものなのです。あなたも教会に来て、ご一緒に笑ってみませんか?