牧師 古森薫

今年、東日本大震災から10年、阪神淡路大震災から26年になります。26年前、私は芦屋で被災いたしました。家族は皆、怪我一つすることなく、家屋は一部損壊の被害でした。一方、近所には家族を失った方、家屋が全壊した方、火災に遭われた方々が数多くおられましたので、私などは大げさに悲しむべきではない、むしろ守られたことを感謝すべきだと考えておりました。また阪神淡路大震災は、被害が局地的であったため、勤務地の大阪では何事もなかったかのように仕事をしなければなりませんでした。地下鉄の中で、自分だけが泥まみれの靴を履いているのに気づいた時、少し惨めになりましたが、生きていること、仕事ができることを感謝すべきだと自分を奮い立たせておりました。
ところが数年前、こんなに時間が経っているにもかかわらず、震災記念日になると心が疼き、依然として心の傷が残っていたことに気づきました。時間が経ったからこそ、封印していた心の傷を見つめることができ、悲しめるようになってきたのでしょう。それで私は震災当日のことを思い出しました。あの日、明るくなってから近くの友人の安否を確かめるために家を出ました。幼い頃の楽しい思い出の詰まった町が、地獄のように変わり果てたのを目の当たりにし、道は塞がれて迷路のようで、なかなか辿り着けませんでした。その後、町は整えられて復興しました。しかし区画整理されたために風景は一変し、どこを歩いているのかわからないほどでした。友人や知人は引越していき、震災前の生活は二度と戻ってはきませんでした。これらの喪失感に真摯に向き合わなかったために、心がずっと疼いていたのです。
すべてを失った方々の悲しみには、私の想像を超えるものがあるでしょう。しかし、申し上げたいことは、悲しむことは後ろ向きの営みではないということです。悲しみをみつめるグリーフワークは回復への不可欠なプロセスです。それだけではなく、悲しみと向き合う中で神に出会い、神の愛を受け入れるなら、たとえ今、絶望的な悲しみの中にあったとしても、やがて悲しみは癒され、消えていくと聖書は約束しています。

『悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。』(聖書)

このように言われた方、イエス・キリストこそ、この世の悲しみを私たち以上に味わわれた方でした。それゆえに、信じる者に寄り添い、その悲しみを喜びに変えることがお出来になるのです。
あなたも、悲しみの多い人生を、このイエス・キリストとともに歩みませんか? キリストは、「すベて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と招いておられます。