主任牧師 神戸博央
 
聖書の中には、「何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」とキリストに対して質問をした指導者のことが記されています。福音書を見ると実は色々な場面でこの永遠のいのちの問答がなされ、それぞれにキリストが答えられたのを観察できます。十戒などの戒めを守ることで永遠のいのちが手に入ると考えていた彼は、実は大変な金持ちで、それを捨ててわたし(キリスト)についてきなさいと言われ、非常に悲しんだと記されています。
別の箇所では、律法の専門家がやはり同じような質問をしたことが記されていますが、やはり彼も自分の正しさを示そうとし、キリストを試して質問したと記されています。彼に対しては神を愛することと、隣人を愛することを示され、親切なサマリヤ人のたとえを話されました。ここでは、この律法の専門家は愛の実践ができていなかったであろうことが暗示されています。
それぞれの箇所の意味や深い解釈についてお聞きになりたい方は是非教会にお越しいただきたいと思いますが、今回取り上げたいことは、その手前の事柄です。すなわち、これらのエピソードに共通している、皆、永遠のいのちに魅力を感じていたという事と、そしてそれを得るための方法を考えていたという事です。一見キリストに敵対する人たちの心の中にもこの永遠のいのちは一大関心事であったのです。

一方、現代日本人にとってはこの永遠のいのちというのは、何かおとぎ話のような響きがあるのではないかと思います。少なくとも表面だっては考えない、考えても分からない、ひょっとしたら考えてはいけないぐらいのものなのかもしれません。ある子供が母親に「人間はどうして死ぬの?」と質問して、「そんなこと考えている暇があったら勉強しなさい。」と答えたという笑い話がありますが、大切なことなのにもかかわらず、その場をごまかして生きざるを得ないという事があるかもしれません。
しかし、私は皆さんにまじめに考えてみてはどうですかとお勧めしたいと思います。聖書の中に出てきた多くの人がそうであったように、それを考えることは恥ずかしいことではないし、むしろ、人間の存在に関わる大切なことなのです。聖書という書物は、不思議なことにこうした一見考えても分からない事柄について大真面目に記しており、またそれが単なるおとぎ話ではなく、実際にこの世におられたキリストを通して語られた確かなこととして扱っています。

実は、私は不治の病を得ています。皆さん、「お気の毒に」と思ってくださるでしょう。しかし、それはこれを読んでいる方も同じことなのです。人は皆「死」という不治の病を得ているのですから。

私は聖書に記されている永遠のいのちの希望を知ってから、人生において物の見方が変わりました。すべてが空しいと思っていたのとは違う、意味がありうる人生という事を考えるようになったのです。そして、それは全ての人に神様から提供されており、神様との正しい関係に導かれることで与えられる恵みであると記されています。

あなたもこの「永遠のいのちへの憧れ」に正直になってみませんか。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。
それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
ヨハネ3:16