牧師 坂口将人
芸術の秋です。さまざまな文化活動によい季節ですね。
古典落語には「はてなの茶碗」というお話があります。水の漏れる安物の役に立たない茶碗が、高貴な立場の人が手にすることで、千両もの値打ちがつくというお話です。
「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」(エペソ人への手紙2章10節)
茶碗は、お茶を飲んだり、ご飯をたべたり、それぞれの目的があって作られています。神様は、私たちを目的をもって造り、それぞれに良い行いも備えてくださっています。
しかし、茶碗はひび割れやすく、傷がつくものです。実は私たち自身も、多かれ少なかれ、ひび割れた茶碗のような存在であります。自分の体を見れば、けがや痛み、つらさを抱えていることがあります。心の中を見ても、うそをついたり、悪口を言ったり、人をねたんだり…。私たちは完ぺきではなく、欠けのある存在です。それは、私たちが神様から離れているため、自分中心で生きる罪の問題を抱えているためであると、聖書は言います。
しかし、そんな私たちでも「だめだ」ということはありません。イエス・キリストは、私たちの罪の問題のために、その罪を背負って十字架にかかられ、私たちを神様のもとへ連れ戻してくださいました。
「はてなの茶碗」では、水の漏れる茶碗が、持つ人によって千両の価値を持ちました。私たちも、ひび割れ、欠けのある存在です。しかし、イエス様を救い主と信じ、神様のもとに立ち返った時、欠けがあったとしても、神様の作品として、良い行いに歩むことができるのです。
「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。」(コリント人への手紙第二4章7節)
イエス様のいのちという素晴らしい宝をうちに秘めた私たちは、完全な者だから用いられるのではありません。むしろ、欠けや弱さを抱えた私たちを通して、神様の力と光が表されるのです。
どうか皆様も、このお方を迎え入れ、ご自身の生きる目的を知り、神様と共に歩む人生を始めることができますよう、心から願っております。
