副主任牧師 鶴岡徹也
先日、私の娘がめずらしく長い間泣いていました。その理由は、自分が大切に作っていたレゴの作品が壊れてしまったからです。普段ならすぐに泣き止むのですが、その日は違いました。娘は泣きながら悔しそうにこう言いました。
「こんなに一生懸命に作ったの初めてだったのに。誰にも手伝ってもらわないで一人で作れたのに。」その姿を見ていて、私は胸がぎゅっとなりました。一緒に作り直そうと試みましたが、元の作品に近いものはできても、同じものにはなりませんでした。
その時、私はふと思いました。「作った人にとって、その作品はこんなにも大切なものなんだな」と。この出来事を通して、「造り手の心」を考えさせられたのです。
聖書には次のような言葉があります。
「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」
エペソ人への手紙2章10節
聖書は、私たち一人ひとりが “神様の作品” だと語っています。つまり、偶然にできた存在ではなくて、大切に心を込めて造られた存在なのです。私たちは、お互いに、顔も体も、性格も、育った環境もそれぞれ違います。一人ひとりがオリジナルな神様の作品として造られたのです。
また、すべての作品に意味や目的があるように、私たちの人生にも神様がデザインされた意味や目的があります。
しかし、現実には、「自分は何のために生きているのだろうか」と感じることも多いのではないでしょうか。聖書は、それは私たちが造り手である神様から離れてしまっているからだと語っています。
そこで、神様は私たちがもう一度、神様の愛の中で目的を見失わないで生きていくことができるように、ひとり子イエスキリストをこの世界に送ってくださいました。イエス様のかかってくださった十字架というのは、私たちがどれほど神様に大切な存在として愛されているのか、ということを伝えるためだったのです。
これを読まれているあなたが、もし「自分の人生の意味を知りたい」という思いが少しでもありましたら、ぜひ一度、教会に来てみてください。心よりお待ちしています。
