牧師:古森薫
先日、家族とレストランで食事をしていた時のことです。店内で突然、マスクをしていない人が大きな声で叫んだのでした。「こんな時になんて非常識な人だろうか。」私たちはとても驚き、困惑し、憤りを覚えました。それまでの楽しく心地よい時間が、一瞬にして不愉快な事件に取って代わってしまいました。コロナ禍前なら気にならなかった事が、今では気になるようになり、最近、怒ることが増えてきたことに、後でふと気づきました。皆さんの中にも長引くコロナ禍で、不愉快な思いになったり、怒ったりすることが増えているという方がおられるのではないでしょうか。
怒りや憤りは否定的、破壊的な力を持ちますので、当の怒る人の心が傷つくだけでなく、人間関係も台無しになり得ることを私たちは知っています。マスクをするかしないかで、殺人事件が起こるほど怒りの力は凄まじいのです。
ところが、怒りが物事を正しい方向に導き、良い事のきっかけになる可能性もあるのです。それは人間の怒りというものは、自分の立場、基準、価値観などが脅かされた時に起こる自己防衛反応であり、SOSのサインであって、自分や他者が大切にしている事、こだわっている事を明るみに出すからです。ですから、そこでさらに、その怒りを乗り越えたいと願うなら、より良い生き方へと成長できる絶好のチャンスとなるわけです。
一般にはアンガー・マネージメントの必要性が説かれ、怒り・憤りを克服するさまざまな知恵も提案されています。しかし、冒頭の私の小さな経験ならまだしも、怒りの中には、何をしても、とうてい解消しそうにもない怒りも少なくありません。そして、そういった「やり場のない怒り」を抱いたまま生活することは、生きることをたいへん苦しいものとします。
「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。」
(エペソ人への手紙4章26節)
聖書は、私たち人間は怒りの中でしばしば「罪を犯してしまう」ことを警告します。その罪とは、自分を正しいとし、自分ですべてを処理しようとすることです。しかし、聖書は、むしろ、私たちが神に信頼し、その神にその怒りを「ぶつけ」、「ゆだねる」ことを勧めているのです。
自分の怒りを認め、神に怒りをゆだねるなら、神は私たちの傷ついた心を癒し、ときには新しい見方を与え、不思議なかたちで怒りから解放してくださいます。