牧師:古森薫
感染症予防のために親や友人と自由に会うことも出来ず、「おうち時間」を勧められるようになって2年近くが経とうとしています。皆さんはこれまで「おうち時間」をどのようにお過ごしになってこられたでしょうか。料理、DIY、映画鑑賞、筋トレ、家庭菜園等々、さらにこの期間に、新しい趣味ができたという方もおられるでしょう。2年前まで当たり前にしてきたことが出来なくなった不自由さを思う一方、今まで考えたことがなかったことが出来るようになるということで、ある種のこだわりから解放され、新しい視界が開けた面もあるでしょう。
しかし、それはそうだとしても、私たちの「心と魂」は、そのような「何かをする・しない」ということで自由となるでしょうか。平安となるのでしょうか。「自由になった」と思っても、より高次の自由というものがあり、そこから振り返ると、如何に不自由であったか、といったこともあるのではないでしょうか。このたびのパンデミックがもたらしたものは多くありますが、私たち人間にとって自由と平安とは何なのかという問い掛けもあるように思います。
ところで、人間の自由と平安ということで思い起こされることは、労働と休息についての聖書の教えです。
「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。」(出エジプト記 20 章 8〜10 節)
この安息日の規定は、6日間働いて全ての仕事をし、7日目はどんな仕事もしてはならないと命じています。聖書は、このことから始めて、ゆくゆくは、人が神の前に自分の全ての重荷を置き、全身全霊が休むこと、すなわち魂の救いに至ることを目的としています。
一見、1週間のうちに1日「休み」の日があるというのは、ありがたいことに思えます。そして、実際、そうでしょう。しかし、体はともかく、心と魂を1日だけ休ませる、ということはかなり難しいことです。1日だけ、仕事のことをまったく考えないでいられるでしょうか。つまり、安息日を守ろうとすると、自分が何に固執し、何に縛られているかが露わになってくるのです。とすれば、この執着していることから自由にならない限り、ほんとうの自由を得ることにはならないのではないでしょうか。「何をする・しない」の自由ではなく、心そのものが自由とならない限り、平安も来ないのではないでしょうか。
その解決は、次のように言われるイエス・キリストにあります。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」(マタイの福音書 11:28,29節)
私たちの心に、ほんとうの自由と平安を与えるために、イエス・キリストは来られました。「何をする・しない」で絶えず働き続けている私たちの心は疲れ切っています。この招きを拒む理由はないのではないでしょうか。
