主任牧師:神戸博央

2022年の新しい年を迎え、お喜びを申し上げます。
遡ること過去2年はコロナ禍という大きな出来事に社会全体、いや世界全体が悲鳴を上げました。特に社会の弱いところにそのしわ寄せが行ったと言われ、その救済は今でも大きな課題であり続けています。聖書の御言葉の中には、教会をキリストの身体にたとえている箇所がいくつかあります。そのうちの一つに、
「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」(Iコリント12:26~27)という言葉があります。
人間は社会から切り離された存在ではなく、一つの身体として考えることの大切さを教えているのです。
医療従事者の方々に負荷がかかれば、それを思って多くの人が自粛を決断されました。もちろん自分が病にかかるリスクも考えたでしょうが、それだけではない行動自制がなされていたと思います。時に日本人の全体主義的で、周りを気にしすぎる気質が問題視されることがありますが、それが功を奏するという事もあったのではないかと思います。聖書の言葉を意識はしていなかったでしょうが、実際にその真理が人々を守るという事があるのではないかと見ました。
一方でキリスト教の価値観を共有していると思われる西欧社会では、自由を大切にする気風からか、感染者や重症者が非常に多いという状況が見受けられました。
これは、彼らの死生観とも関連してきますので一概にその良しあしを比較はできませんが、個人主義が行き過ぎる時の弊害もあったのではないかとも思いました。
いずれにせよ、文化背景がどうであれ、御言葉の真理に従っているかどうかは私たちの人生の質を左右するのだと思います。単にクリスチャンだと思っている人がクリスチャンなのではなく、その生き方が神の前には公平に問われるのです。
昨年末、私は久しぶりに大きな歯痛で苦しみました。たった一本の歯の不調で全く仕事に集中できず、まさに体全体が悲鳴を上げるという経験でした。本当にこの痛みを何とかしてほしいと思いましたが、しかし、痛みにはそこを改善すべきであるというサインなのであって、単にその痛みをなくせばいいという事ではありません。単に痛みだけをなくして問題を処置しなければ、身体全体に悪影響を及ぼしたことでしょう。
今回のコロナでは私たちの社会の問題点が色々と浮かび上がりました。それ自体は痛みの伴う事でありましたが、それにどう向き合うかで私たちの社会の質は変わるのだろうと思います。社会として経験した痛みや苦しみを通して、今年、私たちがどう成長できるのかが問われているのではないでしょうか。もちろん、単に恐れに支配されるのではなく、しぶとく、楽しく、行きたいです。そして、身体全体を意識して歩めればと思います。