新緑が美しく、心地よい季節となりました。ふだん、人間社会の中に埋没しがちな私たちも、野の花や空を飛ぶ鳥たちの喜びに触れると、この世界が人間だけのものではないという思いから、ふと心が和らぎます。イエス様は、「一羽の雀でさえ、神の許しなしに地に落ちることはない」と語られました。人のいのちもまた神の御手の中にあり、生まれる時だけでなく、死を迎える時さえも神の御支配の中にあると聖書は教えています。それは、すべての出来事を創造主なる神が治めておられるからです。
ここで「死」が美しいとされているわけではありません。人が死ぬ「時」が最善のタイミングで起こるゆえに、「美しい」と表現されているのです。肉体の死とは、聖書によれば、人の罪のゆえに引き起こされた、神への反逆の結果です。この反逆そのものが神の前で霊的な死を意味し、聖書ではこの霊的な死を克服することが最大のテーマとして扱われています。イエス・キリストが十字架にかかり、文字通り復活されたのは、肉体の死はもちろん、この霊的な死に勝利し、信じる人々に永遠のいのちを与えるためでした。
したがって、人間の人生におけるすべての出来事は、この「永遠のいのち」に至るための神の時として見るとき、最も重要な意味をもつと言えるでしょう。すべての人は、やがて肉体的な死を迎えます。しかし、永遠のいのちを持つ者は、神とともに永遠に生きることができるからです。
哲学者アランは『幸福論』の中で、「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意思によるものである」と述べています。人は時として気分に左右されて悲観的になり、また意志をもって楽観的になるものです。不安や安心感を繰り返しながら、悲観と楽観の間を揺れ動くことが多い、それが人間という存在でしょう。
確かに、自分の気分や意志を中心に物事を見続けていると、自分の死が恐ろしく思えるかもしれません。そればかりか、環境や状況によって生き方が翻弄されることもあります。しかし、人間は気分や意志に左右される存在ですが、自分を超えたところにある神のことばに目を留めることで、不安や悲観から解放される希望を得ることができます。死の克服である復活を教えるのが神のことばだからです。そのうえで、その神のことばを通して自分自身の人生を見るならば、どんな状況であっても揺るぐことはありません。たとえ肉体的な死を迎えるとしても、それを恐れる必要はありません。なぜなら、死という「時」もまた神の美しい御支配の中で起こる通過点だからです。
このような揺るぎない希望と喜びをもって生きる鍵は、ご自身の十字架を通して永遠のいのちへの道を開いてくださったイエス・キリストを救い主として受け入れることにあります。
あなたも、このような世界について語る聖書を開いてみませんか?