『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです』(聖書)

思えば、同級生が近所の教会の牧師の息子だった小学生の時から、神様は私を捉えてくださいました。私は時々行った教会学校などを通じ、神様という存在を意識して生きてきました。そして、20歳の大学生の時、その教会の伝道集会で信仰告白をし、翌年洗礼を受け、救い主イエス・キリストと共に歩む人生が始まりました。
今、40代半ばになりますが、決して平坦な道ではありませんでした。むしろ、仕事のことも含めて取り巻く環境に色々な変化があり、信仰面でも浮き沈みをしたのですが、神様は今日に至るまで深く私を愛し、導き、祝福ある人生を歩ませて下さいました。
聖書には、信仰に歩んだ様々な人物が登場し、見本にしたい立派なヒーローのような存在がいますが、しかし、どの人物も不完全であり、失敗をする姿が描かれています。これは人が神様の前には罪人である証拠ですが、共通して言えるのは、その失敗した姿も神様への献身と信仰の中で、神様はご自身の愛と真実をもってアプローチされるということです。

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』(聖書)

イエスキリストを私たちに与えて下さった聖書の神様は偉大です。私が不真実な時であっても、決して見放ないでそばにおられ、私の思いをはるかに超えて、愛し導いてくださいました。
このお方を心から賛美したいと思います。

(F.H)