物心ついた時には、毎週日曜日、日曜学校(子ども向けの礼拝)に近所の年上の子どもたちと一緒に通っていました。
当時は子どもながら、当然の事として聖書の言葉を信じ、罪、死、天国、愛すること、愛されていることを深く意識し考えていました。しかし神様のことを知って理解していたつもりでしたが、実は何もわかっていなかったのです。そのことがわかったのは、思春期の頃、大人に対して反抗と共に失望を覚え、また友人たちとの考え方の違い、価値観の違いに戸惑い人間不信に陥ったことを通してでした。表面的には良い人を演じていましたが、本音を隠した現実の生活は不満に満ちたものでした。喜ぶことを知らず、楽しみの無い中で、何をどうしたいのかもわからなくなり、何もかも投げ出したくなった時、私自身の本当の願いは「愛したい、愛されたい。神様の愛を知りたい。」でした。そのことに私自身の心が気づき叫ぶまで、神様は待っていてくれたようです。幼い時からそばに居て、私が自分の力や方法では何も出来ないことを自覚して、神様に助けを求め呼ぶのを待っていてくれたのです。それが神様との本当の出逢いの始まりでした。
神様との出会い方は人それぞれ違うようです。私たちは一人ひとりがかけがえのない特別な存在なので、それぞれ特別な出会い方をすることを教えられています。
反抗期の子どものようにへそを曲げてしまった時も、神様は待っておられます。
「見よ、私は戸の外に立ってたたいている。誰でも、私の声を聞いて戸を開けるなら、私はその人のところに入って彼と共に食事をし、彼も私と共に食事をする。」(聖書)
(N.S)