主任牧師 神戸博央
「こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。」
エペソ人への手紙4:14~15
子供の成長を見るのは嬉しいものです。私には4人の子供がいますが、それぞれの性格も違いますし、選んだ道もまったくバラバラでした。来年の2月が来ると全員が二十歳を越えることになります。子育てする親として、何もかも初めての事で、少し力が入る所から、やがて少しずつ落ち着いてきたという実感はあります。しかし、慣れたからと言ってそれですべてがうまくいくわけではないというのも子育ての難しいところで、ずっと学びの連続だったと思います。夫婦で協力して、理解をして、大きな冒険をするようなもので、その行程そのものが家族を形作ってきました。このような機会を与えてくださった神様には感謝しています。
さて、その中で個人的に大切にしていた価値観は、それぞれが自立した大人になるということでした。もちろん人間社会の中でお互いに支え合うという事は大切なのですが、冒頭の聖書の言葉にあるように、成長して自立していくという事の価値は「キリストに向かって成長する」と表現されているようにとても大切な事なのです。
この成長するという聖書の言葉を具体的に観察すると、世の中にあふれている悪巧みや悪賢い策略から出た、教えの風に吹き回されたり、もてあそばれたりすることがない、という事と対になっていることが分かります。
たとえば、スマホは有益なものですが、そこから出てくる情報に吹き回されたり、もてあそばれたりすることが、現代人はなんと多いことでしょう。普通の若者が闇バイトと称して信じられないような犯罪に手を染めてしまうという事は大きな社会問題になりました。また、カルト宗教にひっかかってしまって、自分で判断できないという事も起こりました。
人生に軸がないと、人のことばに振り回されます。悪巧みを見破れません。また人の顔色ばかりを見て、愛をもって真理を語るなどという事は夢のまた夢になってしまいます。
スマホという個人の情報端末の出現によって、人格的な関わりをパスした玉石混交の情報にさらされているというのが現代です。
そんな中で私たちはどう対応したら良いのでしょうか。そうした危険を防ぐことは可能なのでしょうか?スマホを取り上げるのも一定の効果はあるかもしれません。しかし限界はありますし、それがいつも正しいとは限りません。私はその鍵となるのが聖書の言葉であり、また人格的な交わりを通して聴く言葉であると考えてきました。
まず、聖書の言葉は単なる付け焼刃の言葉ではありません。紀元前1500年ごろから編纂されはじめ紀元100年頃にはほぼ今の形が出来上がっていたもので、それから約2000年間の時を経ても支持され続けてきた、いわば、時代によって精錬された筋金入りの神の言葉の集まりなのです。だから安心感があります。
そして次にその言葉を人格的に信頼できる人の交わりの中で聴くという事がとても大切なのです。変な解釈をしていたら、それを正してくれる共同体が大切なのです。それを実現しているのが健全な教会という所です。
そういう環境で育つ人は、決してスマホの情報に支配されることはなくなります。むしろ、それを見分けて大切な情報とそうでないものを見分ける力が養われていくようになるのです。それが自立した大人の姿であり、大切にすべき成長の価値観です。勉強や、何かができる、できないも大切な事ですが、それ以上に大切な事を礼拝で聖書の御言葉を聴くことによって学ぶことができるのです。