牧師 古森 薫
一般に親は子に対して、少しでも良い学校に入り、良い仕事に就いて、良い生活をして幸せになってほしいと願います。この願いの背後には、この世では能力や権力のある強い者が、能力や権力のない弱い者を支配し、また、支配できるという無意識の思いがあるのではないでしょうか。あるいは親は自分の叶わなかった夢や願いを子どもに託そうとすることもあるでしょう。子どもの方もそんな親心に敏感で、健気にそれに応えようとするのです。社会全体もこの価値観を肯定しますので、人はいつまでたっても偉くなりたい、上の立場に就きたいという願いを捨てられません。そのために他者の学歴や社会的地位がしばしば話題となり、あたかも人の価値を測る物差しのようになっています。学歴も社会的地位も財力もない人でさえ、そのような価値観に縛られていると言っても過言ではありません。その結果、概して人は、この世の価値観から自由な「ほんとうの幸せ」を知りません。
ところで、聖書の中にも出世を願う人々が登場します。イエス様の12人の弟子の中にヤコブとヨハネという兄弟がいましたが、ある時、彼らはイエス様にこのように願い出ました。
「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」 (聖書)
人を出し抜こうとするこのヤコブとヨハネに対し、他の弟子たちは腹を立てました。彼らもまた同様に、自分の方が上の立場に就きたいと願っていたからです。ただ、この兄弟たちの思いは確かに罪深いのですが、「あなたが栄光をお受けになるとき」とあるように、この世での競争ではなく、死後の世界、天国に至る競争を想定していることは注目すべき点です。ですから、彼らの問題は、その競争のあり方でした。
イエス様の次の言葉にその解決があります。
「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。」(聖書)
実は、このように言われたイエス様ご自身が「仕える者」「しもべ」となられたのです。イエス様は神である立場を捨て、人の姿をとり、ご自分を空しくして、しもべの姿をとられ、ご自分を低くして人の罪のために十字架で命を捨ててくださいました。そしてここでイエス様は、人の「偉くなりたい」という競争心や上昇志向に寄り添いながらも、その競争の方向性を180度変えて、他者を支配するのではなく、他者に仕えることで天国への競争をするようにと教えられました。それは、移りゆくこの世の空しい価値観から私たちを解放し、さらにはイエス様の十字架の死と復活によって示された天国へと私たちを導くためなのです。
今、この聖書の言葉に真剣に向き合う時が来ているのではないでしょうか。