主任牧師 神戸博央
「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」
イザヤ書53章3節~5節
私は昨年11月18日に胆嚢の摘出手術を受けました。腹腔鏡手術という術式で開腹することなく4か所に穴を開けて胆嚢を取るという方法です。それまでに3回の胆嚢の発作と思われる痛みが夜中にあり、その都度夜が明けてから病院で診察していただいていたのですが、毎回石が落ちてなくなっているという事で経過観察となっていました。3回目の発作の後に、再び県立の大きな病院を紹介され、行ってみたところ、膵管の奇形もあったことから、手術を勧められたのでした。
それまでの私は幼い頃に大きな病気を患い入院一歩手前という所まで行ったことはあったものの、今回が初体験でした。
一連の検査や手術、また術後の回復期の経験の中で私が感じたのは、関わってくださるお医者さんや看護師さんたちが皆素晴らしい方たちだったという事でした。町医者として私を見てくださるお医者さんはいつも親身になって身体のことを心配してくださいます。そして的確に大きな病院をご紹介くださいました。紹介された消化器内科の先生や手術をしてくださった外科の先生方も分かりやすく手術の説明をしてくださり、身体の状況の説明だけではなく、時には世間話などもしながら私の心を和ませてくださいました。術後管だらけで大変な状況だった私のお世話を24時間見守り、何度も巡回してくださった看護師の方々の労苦も目にしました。どの方もプロとしての自覚と優しさを持った方たちでした。
普段色々な人生の課題を抱えている方と一緒に祈ったりすることが多い私ですが、今回は私のために多くの方が時間を割いて下さり、労してくださいました。そしてそのことに私自身は非常な感謝を覚えたことでした。
コロナ禍で多くの医療従事者の方々が身をすり減らして格闘してくださり、ようやく状況も落ち着きつつある中で、こうした働きをしてくださる方々の献身は当たり前の事ではないのだという事を改めて覚えたことです。
病を知り、癒されたという冒頭の聖書の個所はイエス・キリストを指した言葉であると言われています。キリストも多くの人の病の現状を知り、優しい心で接してくださった方です。心や身体が弱っている時にあらわしていただける優しい言葉や態度は心に沁みわたるものです。神様はこのイエス・キリストを通して神様ご自身の御性格と愛を示されました。特にキリストの十字架の死と復活は私たち人間への究極の愛の証として語られています。また、キリストは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マルコの福音書2:17)と語られ、キリスト自身が癒す人の心を持っていたことが記されています。
今回私は具体的に治療を受ける側に立ったことで、癒したり、病に関わったりする方々の心に少しだけ近づいた気がしました。もちろん究極の癒し主は背後にいらっしゃる神様であり、内臓を取ったのにもかかわらず、元気でこうして過ごせている恵みに不思議を覚えるものですが、多くの人の努力と研究と献身によって今の医術がある事を思う時に、癒す人の心の尊さを覚え、感謝を覚えます。神様の恵みはここそこに満ち溢れているのだと思います。