牧師 古森薫

人の心が優しさで満ち、人と人とがお互いを思い遣る社会はなんとすばらしいことかと思います。それは理想に過ぎないのかもしれませんが、人々が競争をし、お互いを見下し合うことをよしとするだけの社会であれば、そこは愛のない恐ろしいところと化してしまうでしょう。事実、この世の戦いで傷つき、疲れ果てている人々があまりにも多いように拝察されます。弱さを覚える人々への優しさが、今ほど求められる時代はありません。
聖書も、人間の共感できる心、同情できる心を大切にしています。ただ、その要求度は想像以上に高く、以下の言葉は、人間の罪深さの根源にまで私たちの目を向けさせます。

“喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。”
(ローマ人への手紙12章15節)

この言葉の意味を理解するのは簡単ですが、実践することは非常に難しいのではないでしょうか。なぜなら、第一に、この言葉は、ある共通の事柄について「ともに喜び、ともに泣け」と言っているのではなく、「他者の喜びをあなたの喜びとし、他者の悲しみをあなたの悲しみとせよ」と言っているからです。第二に、喜ぶことは感情ですが、感情は意志を働かせて何かをする前にすでにあるからです。そして実際、私たちはしばしば妬みのゆえに他者の喜びを喜んでいない自分の姿を発見するのです。
自分の中に「妬み」があることに気づくことは非常に重要なことで、それをコントロールできるかどうかが人生を左右すると言っても過言ではありません。なぜなら「妬み」は「劣等感」から始まりますが、陰湿で、そのままにしておくと巨大な力となって自分と他者を破壊しかねません。確かに、人は妬みのエネルギーもって多くのことを達成するかもしれません。しかし、どんな偉業を成し遂げたとしても、その根元が清くないだけでなく、人を高ぶらせます。そのような心では、喜んでいる人とともに喜べるはずがありません。
では逆に、「泣いている者たちとともに泣きなさい」であれば、実践できるでしょうか。しばしば、能力や立場、あるいは富といった点で、人は自分よりも劣っている人を「かわいそう」に思うことはあるでしょう。そして、いずれにしても「かわいそうに思う」という憐憫の情は人間として必要です。しかし、上から目線であれば、「かわいそうな」人と「一緒に泣く」ということも限定的な同情でしかありません。
こう考えてくると、喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣くためには、その人々自身と同じようになる程のへりくだりが自分の側に必要であり、自分の内面から高ぶりと自己中心の性質が消えていなくてはならないことは明らかでしょう。しかし、そのことはどのようにして可能でしょうか。
解決の道が一つあります。それは、イエス・キリストとともに歩むことです。ご自身、もっとも弱い者となられ、限りなくへりくだられたキリストは、私たち以上に私たちの喜びと悲しみを知っておられ、深く共感され同情される方です。この方とともに歩むとき、私たち自身もへりくだりを学び、真に隣人に寄り添うことができる心へと変えられていきます。