主任牧師 神戸博央

「いまだかつて神を見た者はいません。
私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、
神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」

聖書の神は目に見えるわけではないと聖書は教えています。霊的な存在であり、この世に存在するどんな形にも例えることができない存在だといいます。
ですから、神のことを地上のどんな存在、例えば、人間や鳥、獣、這う物に似た形としてしまう事は間違いだと教えています。
ただ、その神を示された人格的な存在としてイエス・キリストが私たち人類には与えられたと聖書は語っており、この方の言葉や生き様を通して神を見ることができたと、当時イエス・キリストと共に生きた人々が証言しました。そのいわば「証言集」が四福音書という事になります。この方は実に神の子であったという表現も用いられています。

このイエス・キリストは何を示されたのかというと、それは「愛」という事になります。この愛の性質こそが神を表し、私たちに神を理解させたのです。

イエス・キリストは今から約2000年前に現在のイスラエルに生まれ、30歳ぐらいになるまで石大工の子として成長しました。やがて、彼は「神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と伝道を始められ、人々に愛を語り、病を癒し、貧しい者の友となられたと記されています。しかし、当時の宗教指導者はこのイエスを理解せず、妬みに駆られてなんと十字架につけて殺してしまいました。何と悲惨な事かと思いますが、幸いなことに、事はそれで終わらず、その後3日目にイエスはよみがえったと全ての福音書が記しています。そして、実は、このことは旧約聖書の預言通り、彼が神の子であること、また人類の罪が赦されていること、そして死の力が打ち破られた事の証明としての出来事だったと主張しています。

イエス・キリストは自分を殺す者に対してでさえ、愛を表し続けられました。弟子たちもイエスを裏切りましたが、イエスはそれも受け入れておられ、愛を表し続けられたのです。そのことを表現しているのが、次の聖書の言葉です。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、
宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

そして、この愛を知り、この愛でお互いに愛し合う時に、神の愛が実現し、神を体験することができると冒頭の聖書の個所が教えているわけです。

私も幼い時から変わらない愛を求めるような者でした。そして聖書のイエスの中にその愛を見出し、そしてその実態を教会のクリスチャンの交わりの中に見出しました。もちろん人間欠けのある存在ではありますが、愛を信じたいと思わせてもらえたのが教会という存在だったのです。まだ見たことのない神を信じることができたのは、聖書に記されているイエスの愛と教会の交わりに見られる愛の故でした。
確かに聖書の言う通り、愛によって神を知ることができるのだなと考えています。