牧師 古森薫

高度経済成長期の真っ只中、1965年に私は生まれました。成長期には次々と新しい電化製品が登場し、私はそれらを次から次へと欲しがり、親にねだって買ってもらい、食べる物、着る物に困るなどということは想像も出来ない時代に生まれ育ちました。社会人になった時も、会社の売り上げは右肩上がりに成長し続けるのが当たり前のように考えておりました。
しかし今、日本は超高齢化社会を迎え、経済に対する考え方を大転換しなければならなくなっています。ところが、私たちは依然として、高度経済成長期や異常であったバブル時代までも「あの頃はよかった」などと振り返り、価値観の大転換にまでは至っていないのが現状ではないでしょうか。しかし現実は厳しく、私たちは価値観の変更を余儀無くされています。いつまでも幻想を抱き続けるわけにはいかないでしょう。
ところで、聖書は富について多くのことを教えていますが、地上の富に固執する人間の愚かさに対してはとくに厳しく戒めています。

「富を得ようと苦労してはならない。自分の分別によって、これをやめよ。」
(箴言23章4節)

人は自分の力で富を得たならば、自分の能力や財産に安心し、自信を抱いて、いつの間にか傲慢になります。傲慢はその本人の人生のみならず、周りの人を傷つけ、周りの人の人生をも破壊してしまいます。傲慢な人の富はやがて失われ、欠乏がやってきます。驕れる者久しからずの通りです。では、人は富をあきらめるべきなのでしょうか。

「人を富ませるのは主の祝福。人の苦労は何も増し加えない。」(箴言10章22節)

ここに、人を「真に」富ませるのは主の祝福であると言われています。神と人との正しい関係の中で、人は豊かになるのだと教えています。逆に、人の苦労には、その神からの祝福に貢献するものは何もない、といいます。神の祝福が一方的な恵みであり、しかも人にとって十全であるという意味でしょう。すなわち、人が神との正しい関係を持つなら、神は人をお金だけではなく全ての面において豊かにされるのです。
このように、富には、お金や財産という意味での富と、主の祝福という富との二種類があります。お金を追求することは愚かで空しい一方、神の祝福こそ、とこしえに続くものです。聖書は、その最大の富と宝がイエス・キリストであり、その方を信じることよりいただく「永遠のいのち」だと説いています。

「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」(ローマ人への手紙8章32節)

イエス・キリストのいのちさえも与えてくださる神が、全てのものを恵んでくださらないはずはないのです。ですから、地上の生活についても、何も心配することはありません。
経済第一主義から、神の愛を信じて神と人との正しい関係を第一とする生き方へと、大転換する時が来ているのではないでしょうか。