「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」

ヨハネの福音書15:9~12

聖書の真理は、実はそんなに難しい話ではありません。簡単に言えば、愛されていることを信じ、愛する者となるという事です。愛は私たちの中に最初からあるわけではなく、愛されて初めて愛を知り、やがて愛することを知るようになるという順序がある事を聖書は示しています。ちょうど親から愛されて育った子供が情緒豊かに成長し、やがて人を信じ愛する人になっていくのに似ています。受け入れられないで育った子供はどこかで本当の愛に触れない限り本当の成長をしていくことは難しいと考えられます。
私も小学生の時に、忘れられない先生に出会いました。それまで弱虫で引っ込み思案だった私でしたが、その先生は私を信頼し、理解し、よく用いてくれるような先生でした。私もその先生の信頼に応え、クラスをまとめていくような存在になっていきました。
やがて時は経ち、今から3年ほど前、35年ぶりにその先生に会いに行く機会を得ました。その先生に感謝を表したいという思いが神様から与えられたからです。全ての出会いの背後には神様がいらっしゃるというのは私の信仰です。
先生の家の電話番号を調べ、電話をかけると懐かしいその声が聞こえてきました。その先生は小学、中学と生徒会でお世話になっていた先生ですが、電話をするのは中学卒業以来でした。するとその声は、「神戸君か?懐かしいな~、覚えているよ。」と言ってくれて、そのまま会いに行くことにしました。
先生はご両親の介護のために早期退職をされ、ご家族によく仕えておられるようでした。「先生不義理をしていました。覚えていますか?」と言うと、先生の背を越えてしまった私の姿になかなか実感はできなかったようですが、昔のことを振り返ってくれて懐かしそうに話してくれました。「もちろん、覚えてるよ。新卒間もない時の担任をしたクラスだったが、お前のクラスが一番まとまりのある良いクラスだったぞ。」と言ってくれたのです。
私はにわかに何を言われているのか分かりませんでした。30年以上教師をやっていた先生にとって私のいた時のクラスが一番だったって?それどういうこと?リップサービス?
しかし、そういう適当な事を言う先生でないことは私が一番よく知っていました。私に心当たりがあるとすれば、それは、神様が与えてくださったクラスは一番感謝なクラスだと思い、先生を尊敬していた事、信頼しようと心を決めていた事ですが、それでも、その言葉はあまりにももったいない事でした。
しかし、話していて分かってきた事は、先生にとって、私がいた時のクラスは本当に忘れられないクラスで、いつも楽しく笑っているようなクラスだったという事でした。
私にとっては愛されている実感の中で、自分も愛する者へと変えられていったという経験でしたが、それは相手にとってもそうだったようです。愛の内にとどまる人生は、本当に喜びに満ちたものになりうるのだという事を再確認した、そんな再会の一コマでした。
聖書は言います。最初に愛を示してくださった方は神様です。そしてその神様を信じる時に、少しだけこの世が住みやすい所になるという事なのです。
私は少しだけ人よりラッキーだったのでしょうか。そうかもしれません。しかし、神様の愛の法則はこの世に少し違いをもたらすものではないかと信じたいと思っています。