牧師 鶴岡徹也

私は以前、1年間カンボジアに行きました。カンボジアはポルポト政権による弾圧によって、多くの人たちが命を落とした歴史のある国です。ポルポトは特に国の知識人、エリートを次々に処刑していきました。そのために町は崩壊し発展が遅れました。同じ国の人たちの間で傷つけ合ったので、お互いのことが信頼し合えないのです。愛する家族を失った悲しみを抱える人たちも多いです。私がカンボジアに到着した時、そこは私が育った日本とは何もかも大きく違い、驚きや言いようもない虚無感を覚えました。
ある日、首都プノンペンにあるオリンピックセンターという場所に散歩に行きました。その時、1人の青年が階段に座っていました。服はボロボロで体は痩せていました。彼の横を通りかかった時、彼はなんとも言えない悲しそうな表情で私の方を見ていました。しかし私は一瞬、彼から視線を離して通り過ぎてしまったのです。どうせ話しかけでも言葉は通じないし、たとえ一時的に手元にあるお金を渡しても、彼の生活を助けることにはつながらない。そのようなことを思いながら悶々としていました。「結局、私にできることなんて何もないじゃないか」そう思った時、ある聖書の箇所が思い浮かびました。

ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
彼は何かもらえると期待して、2人に目を注いだ。
すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」使徒の働き3:4〜6

イエス様の弟子のペテロとヨハネが神殿に向かった時に、生まれつき足の不自由な人に会いました。その人がペテロたちに施しを求めた時に、2人が言った言葉がこの言葉でした。この言葉を思い出した時に、「いや、私にもできることがあるのではないか」と思わされました。彼のところに戻って、リュックの中に入れていた神様の愛が書かれた小さなトラクト(小冊子)を手渡しました。彼は「ありがとう」と言ってそのトラクトを読んでいました。その後、私は彼の隣に座って神様にお祈りをしました。お祈りをし終えると彼の表情がやわらかい笑顔になっていました。神様は私たちがお互いに助け合うことを通して、金銀や生活のことだけではなくて私たちに最も必要なことである信仰やご自身の愛を伝えたいと願っておられるお方です。