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 一麦西宮教会へ集われている皆さまへ 

 新型コロナウイルスの感染拡大を受け、一麦西宮教会では以下のように対応いたします。

 6月13日(土)までの礼拝および祈祷会は、会堂に集まることを控えYouTubeを用いて行いました。

 6月14日(日)以降はソーシャルディスタンスを確保するなどの対策を実施しつつ再開いたします。礼拝、祈祷会の配信も引き続きYouTubeで行います。

※サンライズは時間を変更し、日曜午前8:30~9:30にて実施いたします。

※教会学校は時間を変更し、日曜午前8:45~9:45にて実施いたします。

 

礼拝・祈祷会に出席される場合、詳細は教会にお問い合わせください。

 

※下記の時間にYouTubeで配信いたします 

  • 祈祷会 午前 :7月 8日(水)午前10時 
  • 祈祷会  夜 :7月 8日(水)午後7時30分 
  • 聖日礼拝   :7月12日(日)午前10時30分
  • (約15分前から配信開始します)


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2020年7月(July) 

「危機の時に分かる本当の人の姿」 

「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。
また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。
そのとき、イエスはこう言われた。
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。
民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。
「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」
兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、
「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。
            ルカの福音書23:33~37

 当時の宗教学者や指導者たちのねたみによって十字架刑に処されることになったキリスト。聖書はキリストの十字架上での言葉を全部で7つ記録していますが、これが最初に記録されている言葉であり、個人的には最も心に残る言葉です。
 最近ではネットでの誹謗中傷を法律によって取り締まる必要があるのではないかと言われるようになってきていますが、昔も今も、人の闇の心には変化が見られません。
 そんなありもしない悪口を言われ、ひどい言葉を投げつけられたりしたら、誰も耐えられないと思います。相手がその言葉をどんな風に理解するかの想像力は欠如し、自分のストレス発散のためにPCで言葉を書き込んでしまいます。
 私もかつてありもしないことで非難されたり、敵意を持たれたりしたことがありました。こちらはPCが普及する前のリアルワールドでのことです。私が直接知りもしない人から、「あいつ生意気だからぶん殴ってやる。」と言われていたのです。若い時代のちょっとしたストレス発散のような状況です。私はそのことを友達からの忠告として知りました。
 果たして、その仲間からリンチを受けそうになるということがあり、大ピンチを迎えるということがありましたが、そこは勇気を振り絞って立ち向かい、思わぬ助けもあって事なきを得たということがありました。しかし、その時、私の心は穏やかではありませんでした。「何故そんなことするんだ。何故自分がそんなことされなければならないんだ。」という叫びのような自問が浮かび上がってきました。
しかし、ふと我に返った時に思い出したのが冒頭のキリストの言葉です。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
 キリストは「自分の敵のために祈れ。」とも言われていましたが、おおよそ、及び難い精神性です。私は、自分のこうした経験の中でこの言葉のすごさに気づくようになりました。
 誤解のないように付け加えますと、人間、時には立ち向かう勇気も必要であることを否定するものではありません。しかし、大きな計画や摂理の中で黙って耐えなければならないということが、社会の中では時々あります。しかし大事なのはその時の心の内です。
 私は、この言葉によって慰められ、励ましを受け、強められて生きてきました。なぜなら、こういう経験をされた方は私の苦しさも理解していてくださる方だと思ったからです。
 逆に、私も何かがズレてしまえば、想像力のかけた言葉を発してしまうような者です。しかし、そんな私にもこのキリストの言葉は、今度は赦しの言葉として響いてきます。
 人には色々な危機の時があります。そしてその時、その人の心の中にあるものが現れてくるものですが、その点から見て、キリストはいつも変わらぬ愛の方であったということが分かります。その愛で皆さんも愛されているということを是非知ってほしいと願っています。

主任牧師 神戸 博央