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 2016年8月(August)  キリスト教は独善的か 

「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。
 その意見をさばいてはいけません。
 何でも食べてよいと信じている人もいますが、
 弱い人は野菜よりほかには食べません。
 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、
 食べない人も食べる人をさばいてはいけません。
 神がその人を受け入れてくださったからです。
 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。
 しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。
 このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。
 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、
 どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
 日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。
 なぜなら、神に感謝しているからです。
 食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。」ローマ14:1~6
 

 信仰には様々な型が生まれてくる余地があります。人を殺してはいけない、姦淫をしてはいけないというような基本的な教えのみならず、~曜日に礼拝をするとか、食物規定があるとか、様々な宗教で様々な戒律が存在しています。
 キリスト教もお酒を飲まない、タバコを吸わない、ギャンブルをしないというようなイメージがあると言われますが、実はそうした表面的なことは必ずしも大事なことではありません。冒頭の聖書の言葉にあるように、それぞれの信仰の在り方を受け入れるべきであることと、他者を尊重することはそうした規則よりも大切なこととして記されているからです。
 また、それらの行いよりも、それを行う動機の方が問われます。神様への感謝があるかどうかが問題だというのです。どんなに立派な振る舞いをしていても心の中が裁きと苦しさ、人への苦々しさで一杯であるならば、それは本当の信仰とは言えないのであって、むしろ人を束縛するものでしかありません。
 菜食主義者のキリスト者もいれば、お肉をおいしくいただくキリスト者もいます。私のようにほとんどお酒を飲んで来なかった者もいれば、酔い過ぎない程度に嗜む方もいらっしゃいます。「主の祈り」を唱えられないからと言って殺されるなどということを決してありません。キリストは、そうした様々な人間的な戒めから私たちを解放し、自由を与えてくださったと聖書は教えているのです。それのみならず、キリストは十字架につけられることによって私たちの全ての罪を赦してくださったのです。
 キリストを信じるということは、単に戒律を守るようになるということではなく、自らが独善的になりやすい自己中心な者であることを認めて、神様の赦しを受ける生き方であって、他人を裁く生き方ではありません。確かに聖書は、善と悪の存在を認めていますので、正しい判断は必要ですが、それをもって独善的であることを助長してはいけないのです。
 キリストを信じると非寛容で排他的になるというのは、聖書を正しく読んで信仰する人にとっては考えにくいことです。

 主任牧師 神戸博央