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2017年8月(Aug) 「律法を愛する心」 

「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。
 これが一日中、私の思いとなっています。」 詩篇119篇97節
               ※ みおしえ=神の法(御教え)

 最近、色々なニュースの様々な場面から、「法律を犯しているわけではないから問題ない。」というようなコメントを聞くことが多くありました。人間のモラルに関することなども、「別に法律に違反しているわけではないから大人の対応で。」とかいうようなことです。
 政治家たちも、「法律に違反しているわけではないので、問題ない。」という言葉をよく使います。
 こうした言葉は法治国家日本として、一見、法律を大切にしているかのような言葉遣いなのですが、実際はなかなかそう聞こえてこないから不思議です。むしろ、「法律に違反していないのだから、そんなの勝手だ。」というような、法律を字義的にだけとらえ、その心はあまり考えないというようなことがあるように思うのです。

しかし、そもそも法律とは何なのでしょうか?
 
キリスト教文化の中に生きている者からすると、法律は人間を守るものであり、それを守れば祝福されるという聖書の考え方が土台にあることが分かります。それを司る神の存在があるわけです。時の権力者も王も法の前では平等であり、正しくさばかれる存在です。しかし、かたや律令政治に親しみを感じてきた日本人にとっては、この感覚に疎いと言われています。法律は、お上がある日突然制定し、人を支配するために使う道具という感覚があったからだと言われています。当然その法律を制定する人は、法の上にいる訳ですから自分は特別という感じなります。その理解では、ごまかしや嘘なども方便となりえます。

 こうして、法律が、人が人を支配する道具になる時に、それを愛するという感覚はなかなか出てきません。それは単なる束縛であり自由の制限でしかないからです。そんな中で、日本の憲法も、憲法だけは権力者を縛るために存在しているという言われ方をすることがありますが、そもそも権力者側からするとそこは受け入れがたいものなのだと容易に想像できます。アメリカからの押し付けだからというすり替えの理論も最近よく聞くようになってきました。

 聖書は、律法を愛する心、それを一心に見つめて離れない生き方を大変価値のある生き方であると規定しています。それは、その律法(法律)が人間の祝福のために神が与えたものであることを明示しているからです(有名な十戒などもそうです。)。

 実は、日本もその理念においては、法を尊び、自由の価値を認め、民主的な国として歩んできたはずなのですが、どういう訳か、その心がどんどん乖離(かいり)してきているように感じられることがあります。遵法精神、自由の価値、民主主義の底辺には聖書の価値観が影響しているということは広く認められている所ですが、むしろそれを否定したい考えが拡がってきているようなのです。

 改憲の是非を考える前に、「みおしえ」を愛する心、律法を愛する心についてもう少し考えてみる必要があるのではないかと思います。

主任牧師 神戸博央